2021-05

【資料紹介 雑誌『それいゆ』の結婚特集】

【資料紹介 雑誌『それいゆ』の結婚特集】

昭和館図書室では雑誌『それいゆ』の結婚特集を紹介しています。 

6月に結婚式を挙げると一生涯幸せな結婚生活を送ることができるといわれ、この時期の挙式は人気だそうです。
以前は、梅雨の時期の挙式は少なかったようですが、多くの『それいゆ』の読者が家族や友人に祝福される式にあこがれたのではないでしょうか。

100014295 『それいゆ No.14(昭和25年8月)』
資料紹介 雑誌『それいゆ』の結婚特集

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【追悼 澤田隆治さん】

【追悼 澤田隆治さん】

昭和館図書室では澤田隆治さんの本を紹介しています。

昭和8年(1933)、大阪府府出身。大学卒業後の昭和30年(1955)に朝日放送に入社。プロデューサーとして、ラジオ演芸番組「漫才教室」やテレビコメディ番組「てなもんや三度笠」などの制作に携わり、「視聴率男」の異名を取りました。
昭和50年(1975)には東京にも活動の場を広げ、制作プロダクション「東阪企画」を設立。「花王名人劇場」をスタートさせ、漫才ブームを巻き起こしました。

000062691 『私説大阪テレビコメディ史』
追悼 澤田隆治さん


【追悼 田村正和さん】

【追悼 田村正和さん】

昭和館図書室では田村正和さんの本を紹介しています。

昭和18年(1943)、京都府出身。往年の名優・阪東妻三郎の三男として生まれます。
成城学園高等学校在学中の昭和36年(1961)に映画「永遠の人」で俳優デビュー。その後、テレビドラマ「眠狂四郎」や「古畑任三郎」など数々の作品に出演し、二枚目からコミカルな役まで幅広い演技で好評を博しました。
本書では、俳優として活躍の場を広げていく田村さんの素顔とエピソードが紹介されています。

000063121 『昭和の銀幕スター100列伝』
追悼 田村正和さん


【追悼  森下一徹さん】

【追悼  森下一徹さん】

昭和館図書室では森下一徹さんの本を紹介しています。

昭和14年(1939)東京生まれ。
昭和39年(1964)に初めて被爆者と出会ったことをきっかけに、広島や長崎をはじめとする被爆者の写真を撮影するようになります。
昭和56年(1981)には、ソ連邦60周年記念国際記録芸術写真コンテスト「人間と平和」で「被爆者」がグランプリを受賞。
長年にわたり撮影を続け、平成14年(2002)にNPO法人「世界ヒバクシャ展」を設立し、国内外で写真展を開催しました。

000054568 『遺品は語る』
000029731 『被爆者たち』
追悼 森下一徹さん

おうちで映像・音響室の資料を見てみよう!

昭和館では、4月29日から5月8日までゴールデンウィーク特別企画として、映像・音響室が所蔵する資料から順次クイズを出題いたします。ご自宅で推測して答えを考えてみてださい。
※解答は出題の翌日、追記で掲載します。


こちらの映像は、昭和20年(1945)9月に茨城県の古河で撮影されたものです。


(米国立公文書館提供)

映像には、子どもたちが進駐軍の米兵に集まり、
何かを受けとろうと、必死に手を伸ばしている様子が撮影されています。

さて、ここで問題です!

米兵が子供たちに配っているものはいったい何でしょうか。
以下の4択からお選びください。

A:お金  B:お米  C:お菓子  D:お守り



(5月8日、解答を追記しました)

正解はCのお菓子でした。

昭和20年(1945)8月15日の正午、戦争の終結が「玉音放送」によって国民に伝えられました。30日には、連合国総司令部のダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、連合国軍の日本進駐が開始されました。
米軍の茨城県への進駐は9月11日で、この映像は16日に撮影されたものです。
小さい子どもたちはお菓子(キャンディー)を受け取ろうと、米兵の元まで上がっていき、あまりの勢いに米兵は押し倒されてしまっています。
戦後はあらゆる物資が不足し、最も深刻だったのが食糧の不足でした。空腹の子どもたちは「ギブミーチョコレート」と言って、米兵の周りに集まりました。この時代に幼少期を過ごした方たちの中には、初めて覚えた英語が「ギブミーチョコレート」という言葉だったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。見たことも食べたこともない外国のお菓子(チューインガムやチョコレートなど)は子どもたちを魅了しました。

【参考資料】
「茨城県の百年」(213.1/Ki41)
「茨城県史3」(213.2/To15/3)
「20世紀 にっぽん人の記憶」(210.6/Y81)


昭和館YouTubeチャンネルでは、当時の様子について語る証言映像(オーラルヒストリー)も視聴できます。
「母を支え懸命に生きる~國政隆昭さんの体験談~」では、初めて見る進駐軍への印象について國政さんが語っています。
こちらもぜひご覧ください。




おうちで映像・音響室の資料を見てみよう!

昭和館では、4月29日から5月8日までゴールデンウィーク特別企画として、映像・音響室が所蔵する資料から順次クイズを出題いたします。ご自宅で推測して答えを考えてみてださい。
※解答は出題の翌日、追記で掲載します。


この中に、今から約70年前の今日(5月5日)に撮られた写真があります。
どの写真かわかりますか? 考えて選んでみてください。

A.
  012312
  (米国立公文書館提供)

B.
  115969
  (米国立公文書館提供)

C.
  103818
  (米国立公文書館提供)



(5月6日、解答を追記しました)

答えはCの写真です。

この写真は今から73年前の昭和23(1948)年5月5日、東京で撮影された『屋根の上で鯉のぼりを飾る親子』の写真です。

5月5日「端午の節句」は、奈良時代から現在でも続く伝統行事です。男子の健やかな成長を祈願し、鎧兜や菖蒲を飾ったり、鯉のぼりを掲揚して、粽(ちまき)や柏餅を食べてお祝いをします。

戦後の昭和23年、端午の節句である5月5日に「こどもの日」という国民の祝日が制定され、男女関係なく「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日」として祝日になりました。

「こいのぼり」は江戸時代から伝承されてきた日本の伝統文化のひとつで、鯉の滝登りが立身出世の象徴となったことが由来となり、その雄大な姿には子どもの健やかな成長を願う親の想いがこめられています。

今年も各地で「こいのぼり」が見られることでしょう。

※AとBの写真について
A・・・「七五三のお参り」 東京都 昭和23年(1948)11月29日 米国公文書館提供
七五三のお祝いで、晴れ着姿で神社に参拝におとづれた女の子たち。手には千歳飴の入った袋を提げている。

B・・・「正月の日の記念写真」 東京都渋谷区 昭和23年(1948)1月1日 米国公文書館提供
元旦の朝、新年を祝う参拝者で賑わう明治神宮。初詣に来ていた子どもたちを進駐軍の兵士が撮影している。

おうちで映像・音響室の資料を見てみよう!

昭和館では、4月29日から5月8日までゴールデンウィーク特別企画として、映像・音響室が所蔵する資料から順次クイズを出題いたします。ご自宅で推測して答えを考えてみてださい。
※解答は出題の翌日、追記で掲載します。


昭和館ブログをご覧くださり、ありがとうございます。
クイズ記事、お楽しみいただけているでしょうか?
本日は映像資料からの出題です。ぜひ挑戦してみてください!

この映像は、昭和20年(1945)9月2日、
東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で行われた降伏調印式を撮影したものです。

問題のシーンは3:00頃から始まります。


(米国立公文書館提供)

日本、連合国軍が署名し、無事に終えられるかと思いきや……。
降伏文書を囲んで、日本側とアメリカ側が何やら話し合いを始めています。
実はこの時、降伏文書に「ミス」が発覚しました。
日本側はそのミスに対して異議を申し立てているのです。

さて、降伏文書の「ミス」とはどのようなミスだったのでしょうか?

ヒント!おそらく、誰でも一度はやってしまったことがあるようなミスです。



(5月4日、解答を追記しました)

正解は…
「記入ミス」
です!

降伏文書への署名は、日本のあと、連合国がアメリカを先頭に中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順で各国の代表が署名していきました。


(ユナイテッド・ニュース記録映像 米国立公文書館提供)

こちらの映像を見ても、署名がつつがなく進んでいる様子がうかがえます…。

が!カナダの代表が自国の署名欄ではなく、一つ下のフランスの欄に署名してしまっていたのです!次に署名したフランスはその一つ下に署名しました。
そのようにしてカナダ以下、国名と署名がひとつずつズレた文書ができあがってしまったのです。

文書も取り交わし、式も無事に終わろうかとする時に、連合国軍側がこの記入ミスを指摘します。そして、問題の異議申し立てシーンになるのです。

アメリカのサザランド参謀長に、日本側は終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男が、重光葵外務大臣と相談しながら交渉にあたっています。
天皇から全権を任されてこの場に臨んでいる重光外相としては、署名があるとはいえ、国名と署名が違っている文書を取り交わすことは本意ではなかったのでしょう。

サザランド参謀長は「敗戦国ならこれでも良いではないか」というようなことを言ったと伝えられています。

結局、国名を訂正し、それをもって降伏文書は完成しました。
交渉の後に、サザランド参謀長が降伏文書に何か記入しているのは国名の書き換えというわけです。

昭和館が所蔵する米国立公文書館提供の映像では、9月2日の朝から、調印式が終わり日本代表団がミズーリ号を出るまでが見られます。

ぜひ、昭和館の映像・音響室にて、この歴史的出来事と「記入ミス」が発覚した瞬間の映像をご覧になってください!
※今般、新型コロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発令されたことに伴い、
  令和3年4月25日(日)から令和3年5月11日(火)まで臨時休館することになりました。
  詳細については昭和館のホームページをご確認ください。

また、国名が訂正された降伏文書は外務省外交史料館に所蔵されています。
外務省外交史料館:https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/index.html

おうちで映像・音響室の資料を見てみよう!

昭和館では、4月29日から5月8日までゴールデンウィーク特別企画として、映像・音響室が所蔵する資料から順次クイズを出題いたします。ご自宅で推測して答えを考えてみてださい。
※解答は出題の翌日、追記で掲載します。


Applesong

これは占領下の日本で制作されたSPレコードです。
タイトルが英語になっていますが、このSPレコードには戦後のヒット曲第1号と言われている、ある有名な日本の楽曲が収録されています。それは次のうちどれでしょうか。

①東京キッド  ②リンゴの唄  ③長崎の鐘



(5月2日、解答を追記しました)
正解は②「リンゴの唄」です。
「リンゴの唄」は昭和20年(1945)10月に公開された戦後の日本映画第1号である「そよかぜ」の挿入歌でした。映画はあまり好評ではありませんでしたが、「リンゴの唄」の明るく弾むようなメロディーはラジオを通じて終戦直後の人々の心を慰め、励ましていきました。
「リンゴの唄」を歌った歌手の並木路子さんは3月10日の東京大空襲で最愛のお母さんを亡くし、最初は明るく歌うことができなかったそうです。作曲家の万城目正さんに励まされ、悲しみを捨てる決意をして歌った「リンゴの唄」は現在も戦後の復興の象徴として人びとの胸に刻まれ、愛され続けています。

リンゴの唄

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